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プリズムキングカップにおいて、十王院カケルは彼の戦いに勝利したのか?という話

 

いや勝ったんですよ?(いきなり

 

アレで勝ちじゃないとか言われたら、ドヤ顔された真田常務の立つ瀬がないじゃないですか。

 

ただ、あくまでわたしの主観なのですが、完全勝利ではなかったのではないかなー。カケル的に。と思ったので、その辺りを文章化しておこうかな、と。

 

 

 

この先、KING OF PRISM -PRIDE the HERO-のネタバレを多分に含みますのでご注意ください。

また、この記事は、KING OF PRISM -PRIDE the HERO-(以下キンプラ)本編、及び関連記事からわたし一個人が抱いた感想(妄想)であります旨をご理解ください。

 

 

 

 

プリズムキングカップのために一番頑張っていたのは誰か、と問われたとして、そこに上がる名前は答える人によってそれぞれだと思うけれど、一番働いていたのは誰かと問われた時に、十王院カケルの名前を上げて納得しない人間は極少数だと思います。

 じゃあ、その一番働いてたと思われる十王院カケル/カズオが何をやっていたのか、と言うと、作中ではほぼ言及されていません。

作中の僅かな描写と結果、関連記事から推測するしかありませんので、まず、その推測をします。

彼の呼称がカケルだったりカズオだったり揺れますが、そこは「ビジネスマン十王院カズオの行動」 なのか「プリズムスタァ候補生十王院カケルの行動」なのかで何となく区別しています。お察しください。

 

 

作中のカズオの言葉や、オトメディアに載ってた「P.R.I.S.M計画とは」ってのを合わせて考える必要がある案件なんですが、要はプリズムショーのために開発されたプリズムウォッチ(プリズムショーを行うためのミニ筺体)に搭載されいるのがプリズムシステム(バイタルサインを利用して人の気持ちを数値化するシステム)で、プリズムウォッチのジャッジシステムはこの「バイタルサインを利用する」って辺りを転用しているものと思われます。 そのプリズムシステムで数値化された個人の感情をデータベース化、クラウドで共有、商業利用をする計画がP.R.I.S.M計画。

ビジネスマン 十王院カズオとしての最終的な目的はP.R.I.S.M計画の方。

前作KING OF PRISM(以下キンプリ)の時点でプリズムウォッチは実用可能段階ですから、正確な期間こそ不明ですが、だいぶ前からこの計画に関わっていたと言うことは推測可能です。

 

プリズムシステムの活用範囲ってプリズムショーと言う一競技の範疇には収まらないのですが、一般的に人気が高く注目もされているプリズムショーで、プリズムシステムを搭載したプリズムウォッチが流通するようになればプリズムシステムがそれだけ世間に広まっていくことになります。

ここでビジネスモデルにプリズムショーが選ばれたされた理由は、まあ、カケルがプリズムショーオタクだから、で問題ないでしょう。

 

キンプラで、プリズムキングカップ出場メンバーが決まった後、「P.R.I.S.M計画のオープンソース化に関する契約書」を携えたカズオが料亭で商談をするカットが入りますが、この商談に着手したのは、もう少し前段階だと推測可能です。

エーデルローズ寮のリンクに候補生達が集まっている場面、レオ持ってきた、ヒロやコウジ、エデロのネガティブな記事を見て「エーデルローズがなくなるなんて…」と呟くシンや、ショックを受ける他の候補生達の後ろで、カケルは無言で首を振っています。口許は軽く笑みの形。冒頭の「ネガキャンしてるのさ」と同様の仕種、表情のようにも思えますが、この時点で、P.R.I.S.M計画を餌に(と言うと言葉は悪いですが)伍友からエデロへの融資を取り付けるつもりだったのではないでしょうか。 

 

プリズムキングカップで、プリズムシステム及びプリズムウォッチの有用性を伍友に提示→本契約という流れを作り、プリズムキングカップ運営側にはプリズムウォッチを提供(有償か無償かまではわかりませんが)。注目度の高いプリズムキングカップでプリズムウォッチの運用、その後の一般発売の流れを作る。(この流れ作ったからこそ「ウチの営業優秀~」だと思うのですよ)

OSS化したところで商業利用出来るほどのデータを集めるためにはプリズムシステムを一般化しなければなりません。

プリズムウォッチはあくまでプリズムショーのためのミニ筺体で、プリズムウォッチが売れたらそれだけプリズムシステムが世間に広まっていく訳ですから、プリズムショーの発展とプリズムシステム及びP.R.I.S.M計画の発展は切っても切り離せない。

だからてっしーエデロに出資しない?100億円!エデロのプリズムショー見て!そんでプリズムショーの未来が見えたら本契約!ほら、ここにはんこプリーズ!って言うのがプリズムキングカップの裏で、最後の最後にエデロのカケルくんが顔を出しつつも取り纏めてた十王院カズオのビジネスのお話。

 

長い。推察長いよ。

 

 

でもって本題はここからです。

エデロのプリズムスタァ候補生、十王院カケルの戦いの話です。

目的は、エデロのシュワルツへの借金をどうにかすること。

餌はP.R.I.S.M計画のOSS化。

勝利条件は、プリズムショーの発展とP.R.I.S.M計画の発展は切り離せないと提示する以上、プリズムショーと言う競技が今後も成長し発展していくコンテンツであると示すこと。

ヒロ様をキングの座に据えること。

そして、十王院の幹部として、十王院にも融資先(お客様)であるシュワルツローズにも金銭的な損失を出さないこと、辺りでしょうか。

 

 

作中でも描写を見る限り、シンがプリズムジャンプを跳べるか跳べないかが、カケルの計画の中で1番の賭け要素だったのだと思うんですが、この賭け要素は初めから折り込み済みだったように思います。

こう言ってはなんですが、プリズムショーの成長と発展が示せれば良いんですから、これ別にルヰくんのプリズムショーでも交渉の余地はあったんじゃないかとすら思うくらい。

 

ただ、ヒロ様のキング継承のためには、シンのプリズムショーがギリギリのタイミングだったかもしれません。

 

絶対公正なプリズムウォッチによる採点システムをプリズムキングカップ運営側に提供することで、その目的は半ば達しましたが、シュワルツに買収されている審査員の存在を考えれば、ヒロ様のショーの前にはエデロの借金をどうにかしておきたい、と考えたのでは。

カケルはプリズムスタァとしてのヒロ様を尊敬し、信用していますから、prideを使うにしろ使わないにしろ、ヒロさんが万全のショーをやって、ジャンプを跳ぶなら、正当な評価を受けられるのであれば、キングになれない筈がないと信じている。

だからこそ、ヒロ様のショーの前には全て終わらせておきたかったのではないかと推測します。

 

ただ、さすがに予想の範疇を超えたのでは?と思うのが、アレク&タイガのバトル(ここまでは予測済み)で、会場が破壊されてしまったこと。

法月仁はアレクがなんかやらかしてプリズムキングカップが途中で続行できなくなるのではないかと践んでいたらしいですが、カケルに取って、これは非常にまずい事態でした。

このままプリズムキングカップが中止になってしまえば、キングになるのはジョージです。

モニター越しにジョージのショーを見たユウくんに「そんなすごいショーだったか?」と言われるジョージのショーに、プリズムショーと言うコンテンツの成長と発展が示せるでしょうか。

 

P.R.I.S.M計画のOSS化に関する契約の締結は進められるでしょうが…エデロの解散 は避けられないでしょう。

 

直後、カヅキさんがこの瓦礫と化したステージで、プリズムショーを始めます。

 

カヅキさんのFREEDOMをモニター越しに見つめる楽屋の候補生達の中で、カケルはスマショを操作しています。

これ、伍友の勅使川原氏と交渉をしているんですよね。

このカヅキさんのショーこそが、カケルにとって、本当に本当に後に何の手もない純粋な賭けだったのだと思います。

 

カケルはヒロ様をプリズムスタァとして尊敬しています。

でも、同様に、ストリート系としてカヅキさんのこともまた尊敬している、と言います。

だから、だからこそ、ビジネスマン十王院カズオではなくエーデルローズのストリート系、十王院カケルとして、この後がない賭けに乗って、勅使川原氏を説得し切る事が出来た、とは、考えすぎでしょうか。

盤上に賭けるチップは、自らが冠するストリート系のカリスマ、仁科カヅキのプリズムショー。これに乗らなきゃストリート系の名が廃るってもんでしょう?!

と、強気で押し切るカケルの姿が見えるかのようです。(妄想です)

 

 

結果を見れば、カヅキさんのショーによって会場は再生し、シンはプリズムジャンプを跳びます。それを見届けると、カケルは、しもしもー?てっしー?と勅使川原氏と連絡を取り、ステージ脇、仲間の輪から外れて勅使川原氏との本契約、そしてエデロの債務補償を取り付けるための契約の席に着いたのでしょう。

 

尊敬するヒロ様の、絶対に伝説に残るであろうショーを見ることよりも、エーデルローズを守ることを選び、彼の戦いは勝利に終わります。

 

真田常務のプリズムシステム強制終了辺りの嫌がらせは多分、読んでいたんだろうなぁ。

「バックアップならありますよ~(カケル)」から「プリズムシステムは万全を期すために、伍友グループの協力を得ることになりました(カズオ)」の変化、大好きです。

ここで伍友が関わっていることを真田常務に示すのって、この事業を妨害したら、事は十王院だけの話じゃ終わらなくなりますよ、との警告ですよね。

 

ここからは完全に妄想です。

 

 アレクのショーにタイガくんが飛び込んで言った時、「やっぱり」と口にした通り、あのバトル自体は予想の範疇だったんでしょうし、多分、今回のプリズムキングカップ全体を通して、カケルが1番楽しんだのはあのバトルだったでしょう。楽しくなかったとは言わせません。

ただ、あのバトルの結果は、カケルにとって「詰んだ」瞬間です。

カヅキさんのショーがなかったら、十王院カケルは負けていたのです。

「金持ちケンカせず」とか言っておきながら、ソロ曲で、「GO FOR TOP」と歌うカケルが、負けず嫌いでない筈がない、と思うわたしは、負けないために、事前にありとあらゆる手を尽くして涼しい顔をして勝ちを掻っ攫っているんでしょ、この人、と思うわたしは、ヒロ様がキングになったそのステージの上、他のエデロ候補生達の前に笑顔で姿を現す前、真田常務にドヤ顔見せて、てっしーと穏やかに別れて一人になったどこかのタイミングで、「ああああ、カヅキさんマジカリスマ、マジリスペクトっすー…助かったぁ…」って、タイガくんみたいな事ぶつぶつ言いながら、でも、カヅキさんがいなければ勝てなかったことを思い、「悔しいなぁ…」と、ぽつりと零していたんじゃないかな、と思うのです。

既に終わった物語とゴミを拾う話(映画・ピンクとグレー感想)

全く同じ物語を語るのだとしても、語り部が変われば聞き手の印象は変わる。
そこにはどうしたって語り部の意思が影響するからだ。
語り部がその物語に触れた時に何を思い、感じ、共感したかによって、それを語る時に、聞き手に何をもっとも伝えたいかが変わって来るからだ。
それはすなわち、同じ物語に触れたとしても、聞き手が100人いれば感想だって100通りあるのだ、ということだ。

ただ感動しただけであるなら単純な聞き手。その感想を(感動を、感情を、感傷を)他者に伝えて共感して欲しいと望むのなら伝導者。物語をそのまま口伝していくのであれば語り部、なのだろうか。

さて、語り部になった元聞き手が…ただ同じ物語を語るだけであっても独自の解釈を投影してしまう元聞き手達が、その物語に尾ひれを付け始めたらどうなるのだろう。

「この登場人物は、この物語が終わった後、どうなって行くのだろう」「この時、描かれなかったこの場面の隙間で、何があったのだろう」

元々の創作者ではない人間が閉じた幕のその先を、この世に表現されなかった行間を埋めて、この世に産み落とす行動を、我々は


二次創作


と呼ぶ。





加藤シゲアキ著『ピンクとグレー』を原作とした映画『ピンクとグレー』は、ピンクとグレーの二次創作である。※個人の感想です。



この先は結構なネタバレなので、読まなくてもいいです。
まだピングレの映画を見ていない方はネタバレ回避した方がいいですよ。













そもそも加藤シゲアキ著『ピンクとグレー』という作品は「自殺をした白木蓮吾(鈴木真吾)と言う青年の物語を、かつて親しくしていた河田大貴(河鳥大)と言う青年が回想し、追体験する」という物語だ
登場人物名の芸名と本名、ごっちとりばちゃんでテレコなのは仕様です。
白木蓮吾が自殺と言う手段を持って終わらせた『白木蓮吾の物語』を、その最期と言う強烈な瞬間に触れてしまったが故に『白木蓮吾の幻』に憑りつかれ、文書化し映画化し、あまつさえ白木蓮吾役を演じて、河田大貴は白木蓮吾となぞるように物語を閉じた。
原作はそこで終わる。
幕引きとして舞台に乗せられたくせに既に終わった物語を引き延ばし、白木蓮吾の幻を抱いて、河田大貴は退場する。

そして、行定監督の映画はそこから始まるのだ。

前半、ごっちとりばちゃんの出会いからごっちが首を吊るまでの映像は、ごっちの死後に作られた映画で、その映像でごっちを演じていた人物こそが河田大貴であった。

幕引きとして舞台に乗った者がちょっとみっともなく引き延ばしてみたりはしたけれど、きちんと幕を引いた原作に対し、映画の河田は幕を引かない。その後をも続けようと足掻く。
先に原作は河田が白木蓮吾の幻に憑りつかれる物語と言うようなことを述べたけれど、映画は河田が白木蓮吾が捨てたものを拾い集めて自分のもののような顔をする物語だ。
河田大貴が河田大貴のままそれらを抱えて生きていくのであれば、まだまともかもしれないが、河鳥大という器を持っていた彼は、拾い集めた白木蓮吾の捨てた物を河鳥大に詰め込んで、白木蓮吾に取って代わろうとするのである。無意識に。全く無意識になれると思っているのである。
これはだいぶ気持ちが悪い。

映画の河田は『白木蓮吾』の事を良く知らない。
そりゃあごっちとりばちゃんであった頃のことは、共有する思い出があるので、自分の思い出をまるでごっちの物語のように語ることができるのだが、芸能人・白木蓮吾の芸能人としての生活や思想なんて知らないのだ。
その白木蓮吾を知らない者が、まるで白木蓮吾の一番の理解者のような顔をして、白木蓮吾を語り、彼を演じる様は、芸能人・白木蓮吾を知るものに取ってみれば酷く滑稽だろう。
映画を撮り終えてしまえば白木蓮吾でいることもできないのに、河鳥大は白木蓮吾に成り代われると思っている河田はずっとそれに気がつかない。
河田の周囲の人々は、彼のこと、滑稽だと思って呆れてるんだろうなぁ。という描写はそこここでされているが、気がつかない河田に対してそれを決定的に突きつけるのが、映画でりばちゃんを演じた成瀬という役者だった。
白木蓮吾と親しくしていた事を匂わせる成瀬は、河田を馬鹿にし否定し挑発して、舞台から引きずり下ろすのだ。

前半部分の、映画の中で成瀬が演じるりばちゃんは何て言うか、酷くみっともない。いつもごっちの隣に立っているつもりで、その実いつだって先を歩くごっちに対して、うだうだぐずぐずし続けて、執着と反発を抱えて、ごっちがそこに行けるなら、自分も行ける筈なのに、と、どこかで盲信している。

映画のパンフレットの中で、成瀬を演じた菅田君が「前半の劇中劇の部分もあくまでも『りばちゃんを演じている成瀬』として演じている」と言っているのだけど、目の前に白木蓮吾を演じる河田本人がいて、その河田を観察しながら、酷くみっともないりばちゃんを演じ切る成瀬。そこには明らかな悪意がある。

前半の劇中劇の部分、ごっちとりばちゃんの美しい(かなぁ?)青春劇はその実、「白木蓮吾を何も理解していないくせに自分は白木蓮吾になれたと信じ浸りきっている河田と、その河田の目の前で、酷くみっともない河田の姿を突きつけながら、何も気がつかねぇコイツまじみっともねぇwwwと嘲笑っている成瀬」という、実に気持ちが悪い映像なのだ。

これは、一度目を最後まで鑑賞して始めて見えてくる構図であるので、一回の鑑賞ではこの映画の旨味は味わい尽くせないということだ。ずるい。この気持ち悪さを体感するためには二度目を見なければ。


ところで、最後の最後、りばちゃんが白木蓮吾(ごっち)の幻をふっ切って、解放されたような描写がなされるのだが、その先の未来で、りばちゃんは自分の人生を歩むことができるのだろうか。




わたしは「まあ、無理だろうね。りばちゃんダメ人間だし」と思っている。