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既に終わった物語とゴミを拾う話(映画・ピンクとグレー感想)

全く同じ物語を語るのだとしても、語り部が変われば聞き手の印象は変わる。
そこにはどうしたって語り部の意思が影響するからだ。
語り部がその物語に触れた時に何を思い、感じ、共感したかによって、それを語る時に、聞き手に何をもっとも伝えたいかが変わって来るからだ。
それはすなわち、同じ物語に触れたとしても、聞き手が100人いれば感想だって100通りあるのだ、ということだ。

ただ感動しただけであるなら単純な聞き手。その感想を(感動を、感情を、感傷を)他者に伝えて共感して欲しいと望むのなら伝導者。物語をそのまま口伝していくのであれば語り部、なのだろうか。

さて、語り部になった元聞き手が…ただ同じ物語を語るだけであっても独自の解釈を投影してしまう元聞き手達が、その物語に尾ひれを付け始めたらどうなるのだろう。

「この登場人物は、この物語が終わった後、どうなって行くのだろう」「この時、描かれなかったこの場面の隙間で、何があったのだろう」

元々の創作者ではない人間が閉じた幕のその先を、この世に表現されなかった行間を埋めて、この世に産み落とす行動を、我々は


二次創作


と呼ぶ。





加藤シゲアキ著『ピンクとグレー』を原作とした映画『ピンクとグレー』は、ピンクとグレーの二次創作である。※個人の感想です。



この先は結構なネタバレなので、読まなくてもいいです。
まだピングレの映画を見ていない方はネタバレ回避した方がいいですよ。













そもそも加藤シゲアキ著『ピンクとグレー』という作品は「自殺をした白木蓮吾(鈴木真吾)と言う青年の物語を、かつて親しくしていた河田大貴(河鳥大)と言う青年が回想し、追体験する」という物語だ
登場人物名の芸名と本名、ごっちとりばちゃんでテレコなのは仕様です。
白木蓮吾が自殺と言う手段を持って終わらせた『白木蓮吾の物語』を、その最期と言う強烈な瞬間に触れてしまったが故に『白木蓮吾の幻』に憑りつかれ、文書化し映画化し、あまつさえ白木蓮吾役を演じて、河田大貴は白木蓮吾となぞるように物語を閉じた。
原作はそこで終わる。
幕引きとして舞台に乗せられたくせに既に終わった物語を引き延ばし、白木蓮吾の幻を抱いて、河田大貴は退場する。

そして、行定監督の映画はそこから始まるのだ。

前半、ごっちとりばちゃんの出会いからごっちが首を吊るまでの映像は、ごっちの死後に作られた映画で、その映像でごっちを演じていた人物こそが河田大貴であった。

幕引きとして舞台に乗った者がちょっとみっともなく引き延ばしてみたりはしたけれど、きちんと幕を引いた原作に対し、映画の河田は幕を引かない。その後をも続けようと足掻く。
先に原作は河田が白木蓮吾の幻に憑りつかれる物語と言うようなことを述べたけれど、映画は河田が白木蓮吾が捨てたものを拾い集めて自分のもののような顔をする物語だ。
河田大貴が河田大貴のままそれらを抱えて生きていくのであれば、まだまともかもしれないが、河鳥大という器を持っていた彼は、拾い集めた白木蓮吾の捨てた物を河鳥大に詰め込んで、白木蓮吾に取って代わろうとするのである。無意識に。全く無意識になれると思っているのである。
これはだいぶ気持ちが悪い。

映画の河田は『白木蓮吾』の事を良く知らない。
そりゃあごっちとりばちゃんであった頃のことは、共有する思い出があるので、自分の思い出をまるでごっちの物語のように語ることができるのだが、芸能人・白木蓮吾の芸能人としての生活や思想なんて知らないのだ。
その白木蓮吾を知らない者が、まるで白木蓮吾の一番の理解者のような顔をして、白木蓮吾を語り、彼を演じる様は、芸能人・白木蓮吾を知るものに取ってみれば酷く滑稽だろう。
映画を撮り終えてしまえば白木蓮吾でいることもできないのに、河鳥大は白木蓮吾に成り代われると思っている河田はずっとそれに気がつかない。
河田の周囲の人々は、彼のこと、滑稽だと思って呆れてるんだろうなぁ。という描写はそこここでされているが、気がつかない河田に対してそれを決定的に突きつけるのが、映画でりばちゃんを演じた成瀬という役者だった。
白木蓮吾と親しくしていた事を匂わせる成瀬は、河田を馬鹿にし否定し挑発して、舞台から引きずり下ろすのだ。

前半部分の、映画の中で成瀬が演じるりばちゃんは何て言うか、酷くみっともない。いつもごっちの隣に立っているつもりで、その実いつだって先を歩くごっちに対して、うだうだぐずぐずし続けて、執着と反発を抱えて、ごっちがそこに行けるなら、自分も行ける筈なのに、と、どこかで盲信している。

映画のパンフレットの中で、成瀬を演じた菅田君が「前半の劇中劇の部分もあくまでも『りばちゃんを演じている成瀬』として演じている」と言っているのだけど、目の前に白木蓮吾を演じる河田本人がいて、その河田を観察しながら、酷くみっともないりばちゃんを演じ切る成瀬。そこには明らかな悪意がある。

前半の劇中劇の部分、ごっちとりばちゃんの美しい(かなぁ?)青春劇はその実、「白木蓮吾を何も理解していないくせに自分は白木蓮吾になれたと信じ浸りきっている河田と、その河田の目の前で、酷くみっともない河田の姿を突きつけながら、何も気がつかねぇコイツまじみっともねぇwwwと嘲笑っている成瀬」という、実に気持ちが悪い映像なのだ。

これは、一度目を最後まで鑑賞して始めて見えてくる構図であるので、一回の鑑賞ではこの映画の旨味は味わい尽くせないということだ。ずるい。この気持ち悪さを体感するためには二度目を見なければ。


ところで、最後の最後、りばちゃんが白木蓮吾(ごっち)の幻をふっ切って、解放されたような描写がなされるのだが、その先の未来で、りばちゃんは自分の人生を歩むことができるのだろうか。




わたしは「まあ、無理だろうね。りばちゃんダメ人間だし」と思っている。